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「生きているとは何か」

これは誰もが一度は考えたことがある疑問でしょう。

その時にたどり着いた、あるいは辿り着けなかった答えに対し、

もし別のアプローチを向けたらどうなっていたでしょうか?

例えば、生物学的な定義で「生きている」ことを議論した際と、

宗教的に「生きている」ことを議論した場合では、

行き着く先が違う気がしませんか?

今回は、この「生きている」についての考えを深めるべく、

4つの視点からこれについて議論していきます。

​※こちらの記事は企画をスタートする前に作ったテスト版です。

No.1

「生きているとは何か」

これは誰もが一度は考えたことがある疑問であろう。

その時にたどり着いた、あるいは辿り着けなかった答えに対し、

もし別のアプローチを向けたらどうなっていただろうか。

例えば、生物学的な定義で

「生きている」ことを議論した際と、

宗教的に「生きている」ことを議論した場合では、

行き着く先が違う気がしてこないだろうか。

今回は、この「生きている」についての

考えを深めるべく、

4つの視点からこれについて議論していく。

​​「生きている」ってどういうこと?

​​「生きている」って

どういうこと?

「生き物は生きる糧を求めて環境へ働きかける。そして、様々な抵抗にあいながら行動を洗練していく。その間多くの葛藤をくぐりぬけて能動的な経験と受動的な経験がひとつにとけあう瞬間があり、それが美的経験である。」

 生きていれば皆さんは周囲の環境から何かしらの影響を受けるでしょう。そして、喜びや怒り、失望、感動などといった様々な感情にのまれてしまうこともありますね。その感情を誰かに伝える、分かち合う。言葉や態度、表情、あるいは作品といった形で人々はコミュニケーションを日々とっています。

 皆さんも今まで生きてきていろいろと思うことがあるでしょう。各々の今までの経験や感情を一度形にしてみてはいかがでしょう。

​芸術

​芸術

「生き物は生きる糧を求めて環境へ働きかける。そして、様々な抵抗にあいながら行動を洗練していく。その間多くの葛藤をくぐりぬけて能動的な経験と受動的な経験がひとつにとけあう瞬間があり、それが美的経験である。」生きていれば皆さんは周囲の環境から何かしらの影響を受けるでしょう。そして、喜びや怒り、失望、感動などといった様々な感情にのまれてしまうこともありますね。その感情を誰かに伝える、分かち合う。言葉や態度、表情、あるいは作品といった形で人々はコミュニケーションを日々とっています。さて、生きているってどういうか。皆さんも今まで生きてきていろいろと思うことがあるでしょう。各々の今までの経験や感情を一度形にしてみてはいかがでしょうか

今回提示した視点は、

社会学・工学・芸術・体育の4つだ。

同じ「生きている」について議論していたはずなのに、

それぞれの答えに行き着く過程や

行き着いた答えは多様だ。

そして、ここまでで、「生きているとは何か」を

議論できる視点はこれ以外にも無数に存在することに

気づいていただけたことだろう。

この視点だったら?あの視点だったら?

いくつかの視点を混ぜてみても面白いかもしれない。

あなただったらどんな視点から、

どんな「生きている」を作り出すか、ぜひ教えてほしい

今回提示した視点は、

社会学・工学・芸術・体育の4つだ。

同じ「生きている」について議論していたはずなのに、

それぞれの答えに行き着く過程や行き着いた答えは

多様だ。

そして、ここまでで、

「生きているとは何か」を

議論できる視点は

これ以外にも無数に存在することに気づいていただけたことだろう。

この視点だったら?

あの視点だったら?

いくつかの視点を混ぜてみても面白いかもしれない。

あなただったらどんな視点から、どんな「生きている」を作り出すか、

ぜひ教えてほしい

今回提示した視点は、社会学・工学・芸術・体育の4つです。

同じ「生きている」について議論していたはずなのに、

それぞれの答えに行き着く過程や行き着いた答えはさまざま。

そして、ここまでで、「生きているとは何か」を議論できる視点はこれ以外にも無数に存在することに気づいていただけたのではないでしょうか。

この視点だったら?あの視点だったら?

いくつかの視点を混ぜてみても面白いかもしれません。

あなただったらどんな視点から、

どんな「生きている」を作り出すか、ぜひ教えてください。

 

 

「生きている」の反対の「死んでいる」を社会の中で考えてみましょう。そもそも社会とは、人と人との関わり合いで出来ています。この社会の中で「死んでいる」というのは簡単に言うなら、「他人がその人に関心を持っていないまたは関わろうとしていない」状態を指します。

 「社会的死」という言葉を聞いたことがありますか?男子なのに女子トイレに間違えて入っていくところをクラスの女子に見られ学校中に言いふらされて、生徒みんなから白い目で見られる…なんていう場面を想像するのかもしれませんが、社会的死は体は生きている状態なのに社会の中で生きていない状態を指します。「社会的死」について、昔から「完全に昏睡状態の患者や親族から見捨てられた人は社会の中で死んでいるといえるのか」とか、「イベント中のカメラマンのように居るはずなのにあたかも居ないように扱われるのは社会の中で存在しているのか」など色々考えられてきました。

 ここまで説明してきた「社会学でいう死」の逆を考えると、社会学でいう「生きている」とは「他人から関心を持たれているまたは他人と関わりを持っている状態」を指すことになるでしょう。

​社会学

​社会学

「生きている」の反対の「死んでいる」を社会の中で考えてみよう。そもそも社会とは、人と人との関わり合いで出来ている。この社会の中で「死んでいる」というのは簡単に言うなら、「他人がその人に関心を持っていないまたは関わろうとしていない」状態のようだ。読者の中で「社会的死」という言葉を聞いたことがある人はいるだろうか?男子なのに女子トイレに間違えて入っていくところをクラスの女子に見られ学校中に言いふらされて、生徒みんなから白い目で見られる…なんていう場面を想像するのかもしれないが、社会的死は体は生きている状態なのに社会の中で生きていない状態を指す。「社会的死」について、昔から「完全に昏睡状態の患者や親族から見捨てられた人は社会の中で死んでいるといえるのか」とか、「イベント中のカメラマンのように居るはずなのにあたかも居ないように扱われるのは社会の中で存在しているのか」など色々考えられてきた。ここまで説明してきた「社会学でいう死」の逆を考えると、社会学でいう「生きている」とは「他人から関心を持たれているまたは他人と関わりを持っている状態」を指すようだ。

​体育

「生きていること」とは、「生活していること」と言い換えられます。生活には基本的に衣食住の3つが必要とされています。例えば、植物から衣服を作り、採集や狩猟により食べ物を集め、洞窟に住むことなどがこれにあたります。これらを達成するためには、体を鍛えることや、知識を蓄えること、仲間と協力することなどが必要となります。そして、これらの技能を養うとともに活用していくこと、それが生きるということなのだと考えられます。

​体育

「生きていること」とは、「生活していること」と言い換えられる。生活には基本的に衣食住の3つが必要とされている。例えば、植物から衣服を作り、採集や狩猟により食べ物を集め、洞窟に住むことなどがこれにあたる。これらを達成するためには、体を鍛えることや、知識を蓄えること、仲間と協力することなどが必要となる。そして、これらの技能を養うとともに活用していくこと、それが生きるということなのだと考えられる。

 皆さんは、街を行き交う人々を見て、「彼らは生きている」と思うはずです。では、ロボットは生きていると思いますか?自動運転している車は?家の中のお掃除ロボットは?ロボットに感情移入し「生きている」と思う人もいれば、ただ作業をこなすロボットを見て「別に生きているとは言えない」と思う人もいるでしょう。

 皆さんにとって、「生きているかどうか」の線引きは曖昧だと思います。その曖昧さは、様々な場面で議論を生みます。近年では「自動運転をしていて交通事故が起こったとき、その事故の責任は、運転手がとるべきなのか?車が悪いのか?」といった議論があります。こんな時、「生きている」ことの意味を辞書的に定義して、その定義に基づいて判断するべきなのでしょうか?

決して、そうすることが最善の策だとは言い切れないと私は考えます。

 我々は、「生きている」という言葉の曖昧さの中で、その都度、状況に応じて、議論を交わし、「生きている」ことについて考えていくべきなのではないでしょうか。

​工学

​工学

皆さんは、街を行き交う人々を見て、「彼らは生きている」と思うはずです。では、ロボットは生きていると思いますか?自動運転している車は?家の中のお掃除ロボットは?ロボットに感情移入し「生きている」と思う人もいれば、ただ作業をこなすロボットを見て「別に生きているとは言えない」と思う人もいるでしょう。皆さんにとって、「生きているかどうか」の線引きは曖昧だと思います。その曖昧さは、様々な場面で議論を生みます。近年では「自動運転をしていて交通事故が起こったとき、その事故の責任は、運転手がとるべきなのか?車が悪いのか?」といった議論があります。こんな時、「生きている」ことの意味を辞書的に定義して、その定義に基づいて判断するべきなのでしょうか?

決して、そうすることが最善の策だとは言い切れないと私は考えます。我々は、「生きている」という言葉の曖昧さの中で、その都度、状況に応じて、議論を交わし、「生きている」ことについて考えていくべきなのではないでしょうか。

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