top of page

Tsukuba
Learning
Labs

No.2

幼い子どもは何でもかんでも口の中に入れたがります。

「こんなもの食べちゃダメでしょッ」

と子供が叱られる場面は想像が容易だと思います。

しかし、我々はいつ、どのような風に

「食べられる」と「食べられない」を区別するようになったのでしょうか?

子どもに「なんで食べちゃダメなの」と聞かれたとき、

「おなかを壊しちゃうから」と答える方も多いと思います。

しかし、真剣に真正面から「食べ物」について考えてみると

案外興味深い考え方が得られるかもしれません。

今回は「食べ物とは何か」について学んでみましょう。

​※こちらの記事は企画をスタートする前に作ったテスト版です。

​食べ物って何?

​​「生きている」って

どういうこと?

 食べ物には実は2種類のものが含まれています。それは、料理や美味しい果実など「食べたいと思えるもの」と昆虫や一部の土といった「食べても問題無いもの」です。生物学において、この2つの物は栄養になるかならないかを別にすれば「体内を通過する過程で問題を起こさない物」として同一視できると私は考えます。

 生物(ここではヒト)の口から何かの物質が入ると、食道を通って胃や小腸といった消化器官に運ばれ、消化液によって分解されます。この「何かの物質」自体か、または消化を受けて別の物質に変化した後の物質が身体の中で「我々にとって都合の悪い化学反応」を起こさないならば、その物質はめでたく食べ物と考えることができます。(「我々にとって都合の悪い化学反応」というのは、例えば臓器の粘膜を壊したり炎症を引き起こしたりすることです。)

 つまり、生物学の視点で考えるなら、味や見た目がどんなに悪くたって自分の身体に入れて問題が無い物なら食べ物になるのだ。さあ、あなたは明日から土のことを食べ物だと思えますか?

​生物学

​芸術

「生き物は生きる糧を求めて環境へ働きかける。そして、様々な抵抗にあいながら行動を洗練していく。その間多くの葛藤をくぐりぬけて能動的な経験と受動的な経験がひとつにとけあう瞬間があり、それが美的経験である。」生きていれば皆さんは周囲の環境から何かしらの影響を受けるでしょう。そして、喜びや怒り、失望、感動などといった様々な感情にのまれてしまうこともありますね。その感情を誰かに伝える、分かち合う。言葉や態度、表情、あるいは作品といった形で人々はコミュニケーションを日々とっています。さて、生きているってどういうか。皆さんも今まで生きてきていろいろと思うことがあるでしょう。各々の今までの経験や感情を一度形にしてみてはいかがでしょうか

 食べ物と言ったら何を思い浮かべますか?

やっぱりお米?それともパン?それらも食べ物ですね。では、虫はどうでしょう。虫を食べる国もあるって聞くけど、私たちは食べないし…

 本当に日本で虫は食べられていないのでしょうか?そんなことはありません。東北の方ではイナゴの佃煮がおやつとして普通に食べられています。僕は食べませんけど…。

 あれ?僕は食べないけどあの人が食べる物、これって食べ物と定義できるんでしょうか?でも少なくとも僕にとって食べる物ではないはずです。でも、別の人にとっては毎日のおやつな訳です。もしかして、食べ物って「誰がみるか」によって、食べ物だったり、食べ物じゃなくなったりするのでしょうか?

比較文化学

​社会学

「生きている」の反対の「死んでいる」を社会の中で考えてみよう。そもそも社会とは、人と人との関わり合いで出来ている。この社会の中で「死んでいる」というのは簡単に言うなら、「他人がその人に関心を持っていないまたは関わろうとしていない」状態のようだ。読者の中で「社会的死」という言葉を聞いたことがある人はいるだろうか?男子なのに女子トイレに間違えて入っていくところをクラスの女子に見られ学校中に言いふらされて、生徒みんなから白い目で見られる…なんていう場面を想像するのかもしれないが、社会的死は体は生きている状態なのに社会の中で生きていない状態を指す。「社会的死」について、昔から「完全に昏睡状態の患者や親族から見捨てられた人は社会の中で死んでいるといえるのか」とか、「イベント中のカメラマンのように居るはずなのにあたかも居ないように扱われるのは社会の中で存在しているのか」など色々考えられてきた。ここまで説明してきた「社会学でいう死」の逆を考えると、社会学でいう「生きている」とは「他人から関心を持たれているまたは他人と関わりを持っている状態」を指すようだ。

人文学

 食べ物の歴史について皆さんは考えたことがあるでしょうか。「食べ物」の歴史は人類の歴史そのものだと言っても過言ではないでしょう。

 

 現生人類が地球上に現れたのは約20万年前だと考えられており、そこから農耕がはじまりました。農耕により、ある程度安定的に食べ物が得られるようになると人口が増加し、さらには人びとが必要とする以上の余剰生産物がもたらされたことで、富が蓄積され、より複雑で高度な社会が形成されていきました。これが文明の誕生につながったと考えられています。

 

 農耕によってもたらされた富の蓄積は、支配階級と被支配階級を生み出し、このような社会において食べ物は、その人の身分を示す記号的な役割をも果たすようになります。実際、当時のヨーロッパでは香辛料が手に入りづらく、非常に高価だったが、貴族の間では自分たちの特権的地位を誇示するために、香辛料がたっぷり使われた料理が好まれていました。

 

 さらに、産業革命が起こると、交通手段の飛躍的な発達により移民を生み出し、結果として食べ物の歴史にも大きな変化をもたらしました。移住先の地で自分たちの伝統的な生活様式や料理を再現しようとしたことで、食のグローバル化も進んだと言われています。

 

 このように、食べ物の歴史と人類の歴史が密接に関わり、時代によって食べ物の定義は移り変わっていると考えました。人類にとって食べ物とは今後どのように変化していくのでしょうか。

​体育

「生きていること」とは、「生活していること」と言い換えられる。生活には基本的に衣食住の3つが必要とされている。例えば、植物から衣服を作り、採集や狩猟により食べ物を集め、洞窟に住むことなどがこれにあたる。これらを達成するためには、体を鍛えることや、知識を蓄えること、仲間と協力することなどが必要となる。そして、これらの技能を養うとともに活用していくこと、それが生きるということなのだと考えられる。

 皆さんが食べ物を食べたとき、一番最初にやってくる印象は何ですか?

「甘い」「辛い」「酸っぱい」「苦い」といった「味覚の情報」ではないでしょうか?それに続いて、もしくは同時的に、食感や香りといった情報がやってくると思います。

 このように考えたとき、食べ物に関して、一つの共通点が見えてくるのではないでしょうか?それは「食べ物は情報である」ということです。

 食べ物を、構成する情報に因数分解していくことで「食べ物とは何なのか」という疑問に対する答えが見えてくると思います。ぜひ、日ごろ食べている「食べ物」を情報の視点から見てみてはいかがでしょうか?新しい発見があるかもしれません。

情報学

​工学

皆さんは、街を行き交う人々を見て、「彼らは生きている」と思うはずです。では、ロボットは生きていると思いますか?自動運転している車は?家の中のお掃除ロボットは?ロボットに感情移入し「生きている」と思う人もいれば、ただ作業をこなすロボットを見て「別に生きているとは言えない」と思う人もいるでしょう。皆さんにとって、「生きているかどうか」の線引きは曖昧だと思います。その曖昧さは、様々な場面で議論を生みます。近年では「自動運転をしていて交通事故が起こったとき、その事故の責任は、運転手がとるべきなのか?車が悪いのか?」といった議論があります。こんな時、「生きている」ことの意味を辞書的に定義して、その定義に基づいて判断するべきなのでしょうか?

決して、そうすることが最善の策だとは言い切れないと私は考えます。我々は、「生きている」という言葉の曖昧さの中で、その都度、状況に応じて、議論を交わし、「生きている」ことについて考えていくべきなのではないでしょうか。

今回は食べ物とは何かという問いに対して、

生物学、比較文化学、人文学、情報学といった視点から議論を進めてきました。

やはり、一つの問題に対して様々な考え方、答えを得られるということが分かったと思います。

もちろん、これらの視点以外の考え方もある。答えは無限。

あなたがもし今度、子どもに

「なんで食べちゃダメなの」「食べ物ってなに」と聞かれたら

どんな風に答えるでしょう?

ぜひあなたの答えも投稿して共有してください。

bottom of page